夜の静寂に潜む心の嵐
夜になると、なぜかモヤモヤとした感情が湧き上がってくることがあります。
昼間は忙しさに紛れて見過ごしていた出来事が、静寂の中で急に鮮明に蘇ってくるのです。
そんな夜、私の心は一人歩きを始めます。
頭の中だけで考えていると、どんどん自分が被害者になっていくのを感じます。
まるで心の中に裁判所があって、自分を弁護する声だけが響き続けているかのように。
「私はこんなに寂しかった」「こんなに悲しかった」「こんなに惨めだった」そんな思いが、
まるで津波のように押し寄せて、頭の中を完全に占領してしまいます。
私が被害者。この言葉が頭の中でリピートされます。
「私はどうしたらよかった?」「私の配慮が足りなかった?」
自問自答が始まると、もう止まりません。
「だってあの時だって、この時だって」過去のエピソードが次々と浮かび上がり、
それぞれが私の被害者意識を補強する証拠のように思えてきます。
そんな気持ちがどんどん溢れてきて、
最終的には「私は被害者。もうこれ以上無理かも」という絶望的な感情に支配されてしまいます。
これは本当に危険な状態だと今なら分かります。
被害者意識のスパイラルは、一度入り込むとなかなか抜け出せない深い穴のようなものなのです。
ジャーナリングという救いの手
そんな夜、気持ちがどうしても落ち着きません。
理性的には「早く寝たほうがいい」と分かっているのに、心がざわざわと騒いでいます。
そんな時、私はジャーナリングという方法に頼ることにしました。
ジャーナリングとは、ただ思いのままに文字にしていく作業です。
誰かに見せるわけでもない、完璧な文章を書く必要もない。
ただ、心の中にあるものを、そのまま紙やデジタルデバイスに吐き出していく。
それだけのことです。
でも、この「それだけのこと」が、驚くほどの気づきを与えてくれるのです。
たった数行で見える真実
ペンを手に取り、思いのままに書き始めると、すぐに気づきがありました。
文字にして客観視することで、頭の中だけで考えていた時には見えなかった角度から
物事を見ることができるようになるのです。
「あ、これ私がやっちゃってることじゃん」
この瞬間の衝撃は、今でも鮮明に覚えています。
私が被害者だと思っていた出来事が、実は私自身の行動を映し出す鏡だったのです。
これは、私が被害者なんじゃなくて、私も同じようなことをやってしまっているよ、と
気づかせてくれている出来事だったのです。
「うわ。こんなに惨めで、悲しくて、大切にされていないって思ってたけど、私がやっちゃってるんじゃん」
この気づきは、まさに稲妻のような鮮烈さでした。
そして、一番ショックだったのは、それが一番大切な存在である
自分の子どもたちに向けられていたということでした。
子どもたちに向けていた無意識の行動
自分がされて嫌だと感じていること、惨めで悲しくて寂しい思いを、
私は無意識のうちに子どもたちにさせてしまっていたのです。
この発見は、本当に心を抉られるような痛みを伴いました。
自分がそうされていると思うのは簡単です。
そして、それをさらに怒りに変えて周りにぶちまけるということを、私はずっとしてきました。
今でこそ、怒りを直接ぶちまけることはなくなりましたが、
自分一人で寂しさと惨めさと悲しみのヒロインになるということは、
実に簡単にできてしまっていたのです。
これは本当に恐ろしいことでした。
もしジャーナリングという手段が私になかったら…
今もなお、「私は惨め、私は悲しい、私は寂しい」そんな思いで
自分を悲劇のヒロインにし続けていたに違いありません。
ジャーナリングの驚くべき効果
ちょっとジャーナリングをするだけで、ちゃんと気づくことができます。
昨日気づいたのは、たったの7行書いた時でした。
「こんなことが悲しかった、惨めだと思った。
あれ、でもこれ、私、子どもにもしちゃってるじゃん…」そう気づいたのです。
頭の中で何時間も考えていても出てこなかった思考が、
たったの7行書いただけで浮かび上がってきます。
時間にして、ほんの数分のことです。
この効率性と的確性には、いつも驚かされます。
悩むこと、悲しいと思うこと、イライラっとすることがあったら、
とにかく何にイライラしたのか、何に悲しいと思ったのか、何が惨めだと思ったのか、
全部書き出すことをお勧めします。
感情を認めることの大切さ
自分が悲しいとか、惨めだとか、寂しいだとか、そんな気持ちを認めることは、
実は難しいことかもしれません。
これまでの人生で、寂しい気持ちや惨めな気持ちをなかったことにするために、
「私は惨めなんかじゃない。悲しくなんかない。だって自分一人で全部できるもん」と
言い聞かせてきた人も多いでしょう。
どんどん自分一人でできることを増やし、どんどん強くなっていって、
どんどん自分の寂しさや悲しさや惨めさに蓋をしてしまっているかもしれません。
惨めな自分、寂しい自分、悲しい自分なんて認めたくないものです。
そんな可哀想な自分になりたくないと思うのは当然のことです。
だけれども、それでいいのです。
どんな感情も、ないものとして扱っていいわけではありません。
いつも嬉しい、楽しい、幸せ、そんな気持ちばかりだったらいいかもしれませんが、
それでは感情の幅が狭くなり、人生の豊かさを感じることが難しくなってしまうかもしれません。
せっかく喜怒哀楽という感情が備わっているのです。
どんな自分の気持ちも大切にしてあげることが大切だと思います。
ジャーナリングが教えてくれたこと
そう思えるようになったのも、ジャーナリングをしたおかげです。
喜びも、怒りも、悲しみも、楽しさも、全て平等に大切な気持ちなのです。
ない方がいいものなんてありません。存在するものには、全て意味があります。
そのことをジャーナリングは教えてくれました。
そして、私が子どもたちにもしてしまっていることにも気づかされました。
子どもたちの些細な「これしたい」を無視することです。
確かに頻度が違います。
子どもたちからの「あれしたい」「これしたい」は分単位で飛んできます。
全てのリクエストに応えるのは、やっぱり難しいものです。
二人同時に「これしたい」って言われたりもします。
だけど私は、本当にちょっと蔑ろにしすぎていました。
子どもたちのタイミングを大切にすること
「2階で鉄棒するから見にきて?」って言われても、
「ん〜あとでね〜」と答えてしまうことが多くありました。
でも、その時に子どもたちは見てほしいのです。
その時が、子どもたちのタイミングなのです。
「後で後で」って、後にしても許してくれる子どもたちの優しさに甘えすぎていました。
その割に、こちらの言うことを聞いてくれない子どもに対して
「なんで言うこと聞かないの!?」ってイライラしてしまう。
なんて都合のいい母親だったのでしょう。
子どもや夫など、身近な人ほど大切にするって、よく聞く言葉ですが、
そんなこと当たり前って思っていたし、できていると思っていました。
だけど、全っ然できてなかった。
全くできていませんでした。本当に、身近な人たちの愛情に甘えていたのです。
気づきのためのきっかけ
今回の一連の出来事は、そんなことに気づかせてくれるきっかけだったのだと思います。
人生には、私たちが成長するために必要な気づきがあって、
それらは様々な形で私たちの前に現れます。
時には辛い経験として、時には嬉しい出来事として。
そうして考えていると、こんなことを思いました。
「これからも、私には課題があって、これからも何かに気づくための出来事が起こる。
もうね、いい。覚悟決めたから、もうまとめてきてくれないかな」と。
まあ、本当にまとめて来たらきついかもしれませんが…笑
ジャーナリングという人生のパートナー
でも、またどんなことが起こったとしても、私にはこのジャーナリングという手段があります。
いつでもフラットに考えることができ、優しい自分に戻ることができます。
これは本当に心強いことです。
だからこれからも、どんなことが起こっても、また書くことで自分を取り戻していきます。
ペンと紙、あるいはキーボードとスクリーンがあれば、いつでもどこでも自分と向き合うことができるのです。
多くの人にジャーナリングを届けたい
そして、この方法を必要な方に届けていきたいと心から思っています。
ジャーナリングができれば、自分の本当の願望を見つけることができます。
自分の本音を見ることができます。
それを受け止めることで、自分を許すことも、自分を認めることも、優しい自分に戻ることもできるのです。
現代社会は、常に外からの情報に晒され、SNSでは他人の幸せそうな瞬間ばかりが目に入り、
自分と比較してしまいがちです。
でも、ジャーナリングを通じて自分の内側に向き合うことで、本当に大切なことが何なのかが見えてきます。
穏やかな社会への第一歩
みんながジャーナリングをして、穏やかな自分に自分自身で戻れるようになったら、
きっと穏やかな社会になっていけるのではないでしょうか。
一人ひとりが自分の感情と向き合い、自分の行動を客観視し、優しい自分に戻ることができれば、
家庭が、職場が、地域が、そして社会全体がより温かいものになっていくはずです。
本当にそう思います。
これは決して大げさなことではなく、小さな一歩一歩の積み重ねが、
やがて大きな変化を生み出すのだと信じています。
一緒に始めませんか
ジャーナリングを始めてみたい方がいらっしゃいましたら、ぜひサポートさせていただきます。
最初は何を書いていいか分からないかもしれません。
どんな方法が自分に合っているか分からないかもしれません。
でも大丈夫です。一緒に見つけていきましょう。
ご連絡いただければ、あなたに合った方法を一緒に探し、継続できるようサポートいたします。
それではまた、次回のジャーナリングの気づきをお楽しみに。
このエッセイが、あなたの心の中にある小さな声に耳を傾けるきっかけになれば幸いです。